私の好きな陰謀論
私の好きな陰謀論の一つに、「マイケル・ジャクソン生存説」があります。
いや、笑わないでほしい。冷静に考えてほしいのです。
ウルトラマンや仮面ライダーにも「やられる」シーンはありますよね。でも彼らが作品の中で倒れたとして、あなたは本当に「死んだ」と思いますか。思わないでしょう。だって彼らはヒーローだから。
マイケル・ジャクソンも同じなんですよ。
ジュークボックスにコインを放れば、一発で投入口にホールインワンする。ロボットに変形する。車に変形する。最後には宇宙船になる。——これ全部、彼がショートフィルム、ないしは映画の中でやったことです。こんな存在が「死ぬ」ってどういう意味なのか。
© Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.
あげく、前に歩いているはずなのに高速で後ろに滑っていく。意味がわからない。
多感な4歳児ぐらいのときにこんなものを刷り込まれていた私にとって、マイケルはある意味で超越した存在であり、チャック・ノリスのような完全さの象徴でもありました。
超人であり、人間であったということ
もちろん、マイケルは一人の人間でした。
彼の悲劇は、まさにそこにあったんだと思います。世界で最も有名な顔、歌とダンスで世界を変えた存在。それは間違いない。だけど彼は、スーパーヒーローじゃなくて、一人の生身の人間だった。だからこそ、苦しんだ。そこは否定しようがないんです。
実際にお亡くなりになったのでしょう。事実としては。
——ただ、その「事実としては」を、私はいまだにうまく呑み込めずにいる。それぐらいには、マイケル・ジャクソンが好きだという話です。
トレーラーの時から私は負けていた
この映画のトレーラーが出たとき、私はかなりの衝撃を受けました。
そもそも私にとって、マイケルの映画は『This Is It』で終わっているはずでした。3回は劇場に足を運び、BDも買いました。あれはマイケルの「卒業式」だった。マイケルが最後に私たちに何を見せようとしたのか、そしてそれが永遠に見れなくなったという世界の喪失。あの映画にはそういう重力がありました。
もう、新しいマイケルに会うことはない。そう思っていたんです。
——なのに、このトレーラーです。冒頭、最初に画面に映って語りかけてきたのは、Q——クインシー・ジョーンズ。スタジオでQが向き合っている相手なんて、自明でしょう。
そして喋り始める、マイケルを演じるジャファー・ジャクソン。その語り口が、声色が、私が思い描くマイケルそのもの。パフォーマンスや見た目を寄せてくる演者は世にごまんといても、ここまで自然にマイケルの「声」を持っている人間はいなかった。血統を差し引いても、そこにはマイケルがおったわけです。
しかもこの映画が描くのは、ゴシップのオモチャにされていた彼でも、ライブステージの彼でもない。あの伝説を打ち立てた瞬間の、まさに神話の中の彼です。
この時点でもう期待は天井知らずでした。
どこからが本物なのか、わからなくなる
そんなわけで映画『マイケル』を観てきました。
先に言っておくと、このレビューでは「やれズボンの丈が違う」「史実と違う」みたいな重箱の隅の突き方はしません。映画は映画です。そこは本質じゃない。
だってマイケル本人ではないんですから。
© 2026 Lions Gate Entertainment Inc. All Rights Reserved.
ストーリーとしては、時系列を大きくいじることもなく、幼少期からBadの時代まで、マイケルの人生をただ淡々と追っていきます。
話の軸に据えられているのは、父ジョセフの支配に抗うこと。まぁ、映画として構成するならそこになるでしょう。
父ジョーからの虐待が少年期のマイケルに陰を落としている様子は、幾度も描かれます。見ていてキツいんですが、物語が1960年代から始まることを考えれば、あの時代の子育てや倫理観なんてそんなものだろう、と思わなくもない。それよりむしろ、悪意なく、ナチュラルに支配している方に正直ゾッとした。
そして、あの時代に実際に起きたことと照らし合わせると、それがすっと符合してくる。
ソロであれだけの伝説を打ち立てた後ですら、彼は兄弟たちのツアーに名を連ねている。敬虔なエホバの証人でもあった彼が、ペプシの巨大なスポンサードを受けている。
彼が私たちの前では直接見せなかったところで、いったい何に抗い、何に耐え続けてきたのか、何に立ち向かったのか、何をしたかったのか。それをこの映画は、声高にではなく、淡々とお出ししてくるわけです。
そんなマイケルに、彼が必要としていた”父親”を与えてくれるのがビル・ブレイです。その存在に、スクリーンの中のマイケルと同時に、観ているこちらまで救われた気がしました。
そしてこの映画は、そういった裏話だけではなく、私たちが知るあの「マイケル・ジャクソン」を、幾度も連れてきてくれます。
衝撃的だったのは、スリラーの再現シーンでした。
あのショートフィルムに登場するガールフレンド役の女優さんが、そもそもオリジナルにかなり似ている。そこからカメラがマイケルを捉えた瞬間——「あれ、どこからが再現なんだろう」と一瞬わからなくなるんですよ。全部再現なんです。全部。その再現度たるや、もう尋常じゃない作り込み。
それに、喋りからしてマイケルそのものと錯覚するレベルのジャファー・ジャクソンの演技。トレーラーで感じた予感は、映画全編を通して裏切られなかった。いろいろなシーンを見ていく中で重箱の角をつつくような見方をしない限りは「マイケルっぽくないな」と思う瞬間がほとんどない。
マイケルの茶目っ気、ちょっと弱気になるところ、そういう細部まで含めて——「マイケルがこんな感じだったらいいよな」と思ってしまうような、そういうマイケルがスクリーンにいた。
あくまでジャファーが演じているマイケルです。それはわかっている。だけど、時折ふと、本物のマイケルがそこに見える瞬間がある。そういう不思議な映画でした。
Off the Wallの向こう側
映画のストーリーとしては、時代で言うとだいたい「Bad」のあたりまで。色濃くフォーカスされているのはジャクソン5の時代から、『Off the Wall』を経て『Thriller』に至るあたりです。
この時代にフォーカスされたことが、私には刺さった。
マイケルのアルバムはどれも好きですけれども、ファンの中で声が大きいのはやっぱり『Thriller』と『Bad』の黄金期、あるいは『Dangerous』あたりでしょう。でも私が一番好きなアルバムは何かって聞かれたら、迷わず答えます。『Off the Wall』です。もっと言えば、表題曲「Off the Wall」が一番好き。
「すべて忘れて踊ろうよ」——シンプルな曲です。ファンクで、軽やかで、爽やかで。物心つく前から知っていたマイケルが、明確に好きなミュージシャンになった曲だったと思います。私にとってはそういうアルバムです。
その『Off the Wall』が生まれる過程——Qとの出会い、そしてそのヒットが、後に世界を丸ごとひっくり返す『Thriller』へどう助走をつけたのか。リアルタイムでその光景を見れたわけではない世代のファンとして、嬉しくないわけがない。
作中でジョセフが放つ「9時5時は俺の時間、それ以外は自由にしろ」のセリフ。もしかして「Off the Wall」に出てくる "Nine to five" って、その事だったのかな、とか。
(この歌詞はマイケルが書いたものではないんですけどね)
そしてもう一つ、楽曲のバックグラウンドで特に刺さったのが「Beat It」でした。
© 2026 Lions Gate Entertainment Inc. All Rights Reserved.
ギャング同士の抗争に心を痛めていたマイケルが、あのショートフィルムに本物のストリートギャングを起用した。その経緯がこの映画では描かれる。私はそこで気づかされたんですよ。その心は、後に「Heal the World」を作った彼と全く同じ軸の上にあったんだ、と。暴力への嘆きも、世界を癒したいという祈りも、マイケルの中ではずっと一本の線だった。
彼がただひたむきに純粋で、そして優しい人だったことがよく分かる。そして、そんな彼は、圧倒的カリスマと才能だけでギャングたちの心すらも掴んでいくのです。
病棟のマイケル
この映画で一番心に来てしまったのは、パフォーマンスのシーンでもなければ音楽のシーンでもなかった。
マイケルが病院を訪れるシーン。子供たちに声をかけ、励まし、普通にたわいもない話をする。そういう場面が映画のあちこちにポロポロと出てくるんです。
あの重度の火傷を負ってすら、同じ病棟にいる火傷の子供たちの病室に足を運んで、ずっとそばにいる。
私はこのあたりで、涙が出てきました。
© 2026 Lions Gate Entertainment Inc. All Rights Reserved.
マイケルは、ああいう男であってほしかった。ナチュラルにそういう男であってほしかった。——実際、そうだったんでしょう。
あれだけ追っかけに苦しめられてきた彼が、お忍びで買い物をしているときですらサインに応じる。そんな姿が描かれる。かつて密着取材を受けていたときの、あの穏やかなマイケルと重なるんですよ。演じられた映像のはずなのに、ああ、彼はずっとこういう人間だったんだろうなと思ってしまう。
同世代の子供たちが誰も自分を人間として扱ってくれない。
そして家に帰れば、自分とたわいもない話をする相手が、家族の一部と、自分が飼っている動物たち以外にいない。世界で一番有名な男の、とても小さい世界。
人として扱ってもらえない彼が、誰よりも人を、そして子供たちを1人の人間として扱っている。この非対称性。
そこが見ていて身につまされてしまうと言いますか。
マイケルが自分の人生を犠牲にして生きてきたことは、言われなくたって知ってました。でもこの映画はそれを、事もなげに、ストレートに示してくる。
私たちが彼の才能を言い訳に消費してきたものの正体を、改めて突きつけてくるのです。
偶像を消費する罪深さ
この映画を観て、ずっと引っかかっていたことがあります。
マイケルは、この映画を作りたかっただろうか。
——たぶん、ノーでしょう。
自分の作った世界だけを見てほしい、そう思うはずです。
そうでなくても、この映画をめぐって遺族は割れています。母キャサリンがこの映画を歓迎する一方で、娘のパリスは「自分は一切関わっていない」と距離を置き、内容にも公然と批判的だ。作中で不自然なぐらい姿を見せないジャネットに至っては、自分を演じさせること自体を断ったんだそうな。
故でしょうか、マイケルをアイコンとして消費している自分たちの罪深さみたいなものを、観ている間ずっと感じていました。きれいごとの言いようがない。明らかに消費している。
私も見に行っている時点で十分に罪深い存在です。でも、この映画は私にとって救いであり、喜びでした。そしてそれと同じ分量だけ、罪でもあったのです。
昔から一つわからないことがあったんです。『ジーザス・クライスト・スーパースター』という映画がある。なぜイエスを「スーパースター」と表現したのか。幼少の頃からずっとピンと来なかった。
スーパースターとは、本質的にそういうことなんでしょう。本人が望もうが望むまいが、結果としてそうなってしまう。神として崇めることは、普通の暮らしを望んだ彼の願いを否定することでもある。罪といっていいでしょう。それ以外になんと言いましょうか。
そして残酷なことに、彼の才能を前にすると、罪とわかっていても崇拝してしまう。それがまさに「スーパースター」ということなんだろう、と。文字通りの、星。
この記事の冒頭で、私はマイケルをウルトラマンや仮面ライダーと並べました。でも、あの人たちはフィクションでしょう。彼は現実の人間だった。そこが何より痛烈なんです。
彼は生きている
映画が終わって、スクリーンが暗転して、劇場の明かりがつく。
冷静に考えれば、マイケル・ジャクソンはもうこの世にはいない。それは分かっている。
でも、あのジュークボックスにホールインワンを決め、ムーンウォークで疾走し、重力無視して斜めになり、ロボットになり車になり最後には宇宙船になって飛んでいった、あの男が——死ぬわけないんです。
私の中で——いや、きっと誰の中でも、彼はずっと生きています。
そして、もしホントは生きていて世間から隠れているだけなのであれば、どこか遠くの、世界の誰にも知られない場所で、のらりくらりとゲームでもしながら平和に暮らしている。何者にも追われず、静かに。そうであってほしい。そう思わずにいられない。
映画『マイケル』は、その思いをもう一度確かめに行くための映画でした。
しかしこの映画、残酷なことに続編が作られるとかなんとか。
続きを求めるのは、極めて罪深い。
この物語の結末は、誰もが知っているのに。
しかしその罪を犯してでも、彼を追わずにはいられない。彼を苦しめたその1人なのかもしれないという疑念を頭の中から追い出せないまま、演じられた姿でもなお猛烈な輝きを見せつける彼に、また魅せられてしまうのです。
罪深き私を、お許しください。
引用: © 2026 Lions Gate Entertainment Inc. All Rights Reserved. , © Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.